第10号
1996年11月
文:向井 裕子、WP:向井 宏、裕子
仲間たち
望が産まれて1年たった頃から、私達家族を取り巻く人間関係が少しずつ変化をしてきました。広がってきたというべきでしょうか。自宅と会社との往復で精一杯だった頃に比べて、本当に多くの人々と出会ってきました。その中に「障害児の母親」という共通項を持つ友人達がいます。それは仲間という方がぴったりです。彼女たちと話をするとほっとしたり、元気が出たりしてきます。それは決して同病相憐れむという感じではありません。時々、「最近、ひどい睡眠不足で辛いワ。」という会話もします。そういった愚痴っぽいことは、多くの説明を要しません。子供の症状は異なっても、少しの言葉で多くを理解してくれる仲間たちです。でも、お互いに同情しあい慰めあっているわけではないのです。
彼女たちに出会って、一番良かったことは、障害児を育てながらいかに楽しく生きていくか、自分の人生をどう豊かにしていくかを学んだことです。障害児の親だから、ひっそりと回りに気を使って過ごすのではなく、肩肘を張って明るさを装うのでもなく、ありのままの子供と自分を慈しみ、日々の暮らしを大切にしている仲間たちです。
重度心身障害児の天音ちゃんを自宅で抱き続け介護している山口ヒロミさんは、いつも私に元気を下さいます。彼女の夫の明さんは彼女に「障害児の母だって女だよ。一人の女をきりりとやってごらんよ。」とおっしゃいます。吸引が絶えず必要で、一日中目の離せない海くんをやはり自宅で介護している西原由美さんとは年齢が近いこともあり、広島と大阪と離れていても電話や手紙で連絡を取り合っています。彼女の前向きに「明るく、しぶとく、したたかに」のモットーは、いつも私を励ましてくれます。
一期一会の出会いでも、ほんの少しの手紙のやりとりだけでも、多くの障害児の母親たちが障害児を育てながら、バイタリティーにあふれて生きていることを知らされます。「障害児」を育てることによって、今まで自分たちに中で眠っていたエネルギーが目覚め、すごい力を発するかのようです。自閉症の久子さんのお母さんは、久子さんの成人記念の出版物「笑顔との出会い」の中で、「その子の世話をするのが親の仕事だと思うから、親から離れても生きて行ける地域社会になるよう努力することが今、親やこの子達を取り巻く者のしなければならないことだと思っています。」と書いていらっしゃいます。愚かな私などは、きっと望が五体満足で健康に産まれてきていたら、子供の世話をすることが親の仕事と思い、会社勤めを続けることが自分の生き方と思い、あわただしさの中に充実感を覚えながらも、ただそれだけの人生を送っていたことでしょう。
望が産まれたことで、生きていく上での多くのことを考えさせられ、社会の中で生きていく意味を気づかされ、人や地域とのつながりの大切さを知りました。多くの仲間と出会い、より楽しく豊かに生きていくことを教えられました。
望の誕生 付録
望が重い障害を持って産まれ、私は、1年近くの育児休暇を取った後、10年間の会社員生活にピリオドを打った。仕事を続けることを当たり前と思い、それは、出産しても変わらないはずだった。しかし、望が産まれ、私は、仕事を辞めようとぼんやり思った。それでも退職の決心はつかなかった。能力があるわけでもなく、時間的に多くの仕事量をこなせるわけでも無かった私は「継続は力なり」と思って働いてきた。続けることに意味があった。ここで辞めれば、無理して頑張ってきた10年間が無駄になるように思われた。育児休暇中に昇進して、8時間会社に縛られなくても良くなっていた。
しかし、大阪市には、重度の身体障害児を預かってくれる所は無かったし、私にも望のためにやるべきことがあるように思われた。迷い続けた末に退職を決心した。送別会で私は、きつい仕事に愚痴をこぼす後輩達に「泣いても一生、笑っても一生、どうせなら笑って生きていきましょう」と挨拶をした。自分にも言い聞かせる言葉だった。
仕事を辞めることは随分と悩んだのに、私は、望の障害に対して、あまり嘆き悩む事が無かった。入院中は1日1回の面会と授乳が唯一の楽しみだった。望の澄んだ真っ黒な瞳が私をじっと見つめ私の心は愛おしさでいっぱいになった。望が退院して、初めて布団を並べ眠った夜、うれしくて幸せだった。望の誕生のショックから立ち直り、前向きに生きようとしたのも早かった。
しかし、逆にその事が自分の負い目のように思われた。「泣くのが当たり前」、「強いわねえ」とか「どうしてそんなに前向きになれるの」と言われることが辛かった。自分は冷たい人間なのだろうか、自分には何かが欠けているのではなかろうかと考えた。
ある日、私は、自分の心を納得させる文章を見つけた。普通、母親(両親)は、子供の障害を知り「この世の終わり」と耐え難いショックを受け、「それは本当の事ではない」と否認し、そして長い間、悲しみや不安を持つ。それは妊娠経過中に心の中で想像した子供の姿、理想化された子供のイメージと現実の子供の実際の姿との間のギャップのせいだと言うのだ。思えば、私は妊娠中、子供のことを思い描く事がほとんど無かった。ようやく授かった子を流産しはしないかと心配し、胎動がほとんど無かったので生きているのだろうかと不安になり、そして、もう大丈夫と思った妊娠7ヶ月の翌月には胎児の異常を知らされた。子供の誕生後を期待し想像する間もなく、医師から「最悪の場合を覚悟せよ」と言われたのだ。そして、私はその日まで、いや、産まれるまで、授かった子を気遣い一生懸命大切にしてきたつもりだった。精一杯やった事の結果としての現実。望がお腹にいる時の2ヶ月間、私だって悲しみ泣いたではないか。望が誕生して、私は、悲しみや不安の次の適応や再起という段階からスタートしたのだ。そのことが分かるとほっとした。もうためらわず前を向いて生きて行こうと思った。
ひとこと
望は、関西医大付属病院の小児科、泌尿器科、外科、脳外科、大阪市立総合医療センターの耳鼻科、眼科への通院に加え、10月24日より兵庫県立総合リハビリテーションセンターのリハビリテーション中央病院整形外科への通院を始めました。当面、半年に1回程度の通院となります。多くの診療科を受診するため、医師たちの連携は決して良いとは言えません。実際のところ、医学的な知識のあまり無い私が連携している現状です。そこで3才になってから望のカルテという小さなノートを作りました。今日まで、受診の度にお願いして3名の医師に書いて頂きました。皆さん、快く書いて下さいました。
この頃、望は、とてもおしゃべりです。言葉らしきものはでていませんが、一人でアウアウ、ダイダイ、ティアティア等言っています。電話でバイバイと言われると手を振っています。療育センターの保育は楽しそうで、先日は、早退しようとすると怒ったので、保育室に戻るとフフッと笑って機嫌が戻り、結局、最後までいました。
10月は、勘原さん、末信さん、上野さん、塚本さん、小濱さん、津田さん、菊永さんがボランティアに来て下さいました。