見出しへ戻る

のんちゃん 便り

第158号 2012年7月

「いのち」のこと

春から、私は、出生前診断や受精卵診断、脳死問題などの講演会を聴きに行く機会が続きました。また、子どもの臓器移植や受精卵選別の報道がありました。「いじめ」による自殺の報道も続きました。また、「いのち」のことを書いて、自分の思いを見つめたいと思います。

のんちゃん便りに何度か書いてきましたが、望の誕生の時、「生」と「死」について考えさせられました。望と暮らしながら、「いのち」の重さや「生きること」を考えてきました。成長していく望の傍らで、子どもは親のモノではなく、一人の「ひと」であり1つの「いのち」なのだと思い続けてきました。道標があるわけではなく、揺らぎながら、読んだり聴いたり、そして、望の意志に耳を傾けながら、親の立場、女性の立場、そして、一人の人間として、いろんな視点で自分なりに考えてきたつもりです。

一昨年、ある講演会で、川島孝一郎氏(医師)が「死を迎えるその時まで人は存在し生きている。人の存在と生が『それ自体尊いもの』として扱われなければならない」と話されました。『終末期』という定義はないことも言われました。その言葉がストンと私の心に納まりました。そして、「尊厳のある死?」「脳が死ぬ?」「命のバトン?」…、いろんな言葉に疑問が湧いてきました。

今年6月に6歳未満の子どもに対して脳死判定が行われ、臓器移植が行われました。6歳未満の子どもが、臓器提供の意思表示はできないでしょうから、親の意志によっての臓器提供です。いえ、万が一、その子どもが、「ボクが死んだら誰かにボクの身体をあげて」というようなことを言っていたとしても、6歳の子どもが、死の瞬間の意志決定などできないと思うのです。半世紀以上生きてきた私自身、そんな決断はできそうにありません。親の決断を美談のようにマスコミが取り上げたことを危惧しています。死の決断が美談になるのは、戦争と同じだと恐怖を感じました。

すべての「いのち」が、ここにある「いのち」そのものが、死を迎えるその時まで、どんな「いのち」も尊いと思います。どんな命も、です。人の命に上下も優劣もなく、無駄な命なんてないのです。なんて、「そんなことはわかっている」と言われそうですが、あえて言います。人は気づかぬうちに、命に優劣をつけていると思います。私は大学で講義をする時、「おなかの子どもに『障害があるかどうかがわかる検査』を受けますか?」と尋ねることがあります。多くの学生が検査を受けると答えます。「(障害がないと)わかれば安心だから。 『安心』するのはなぜ?」 「(障害があると)わかれば準備できるから。 ホントに心の準備ができる?」。中には「障害があったら育てる自信がないから」という回答があります。「障害があれば産まないってこと?」「障害のない子なら育てる自信があるのかな?」。「障害があっても産むことに変わりはないから、検査は受けない」という答えもあります。でも、パートナーや親たちが検査を強要したりはしないでしょうか?

私は、産むことを最終的に決めるのは女性だと思っています。しかしながら、産むつもりだったのに「障害」を理由に中絶を選ぶことは、女性の権利ではなくて、単に命の選別をしただけだと思います。障害をもつ子どもを産んだら、育児に大変な思いをするのは、多くの場合、女性だと思います。出産も介護も女性の担う役割がとても大きいのが現実です。でも、選択的中絶の理由として介護の問題をもってくるのは違うと思います。まずは、介護の問題は介護の問題として解決していくべきでしょう。ただ、医療の技術が進んで、妊娠に気づいて、産むかどうかの決心がつかないうちに、障害があるとわかったら…? 障害がない胎児なら中絶できるが、障害があれば中絶できない、なんて状況もおかしな話です。やはり、一番良いのは、出生前検査が無いことだと思います。

「胎児に障害があった場合に中絶することが、なぜいけないことなのですか?」と質問する学生がいたなら、「それ(選択的中絶をすること)は、障害をもった人は生まれてこなくて良いということになりませんか?」と、私は問うと思います。けれど、「障害をもつ人が生きていくことを否定する」ことと、「自分の子どもが障害児は嫌だ」という思いは別のモノだと言われたら、どう説明しましょう…。私は、「社会の中に障害者がいることを拒否したい」という思いと、「自分の子どもが障害をもって産まれることを拒否したい」という思いは、つながっていると思うのです。そういう思いに向き合うことはしんどいことです。けれど、自分には関係ないと思わないで欲しいと思います。障害をもって産まれることが不幸だという価値観を作りだしている社会、障害をもった人が生きづらい状況を作り出している社会、そんな社会を作っているのは、私たち自身なのですから。

今年4月に森岡正博氏の「〈いのち〉を選ぶことと〈いのち〉の尊厳」という講演を聴いた時、「中絶は自己決定として許されたとしても、選択的中絶を許すことになった場合は『根源的な安心感』がなくなってしまう」と言われました。「根源的な安心感」とは、「どんな状態で産まれても、どんな状態になっても、生きていけるだろうと思える」安心感のことだそうです。障害をもって産まれてきても「よく生まれてきたね」と迎えられ、今、自分が障害を負ったとしても、胸を張って生きていていいと思える社会では、誰もが安心して暮らしていくことができます。

障害の有無についてだけではなく、いじめにあったり、虐待されたりして苦しむ子どもたちを作りだしているのは、やはり、私たちだと思うのです。いじめる子どもや虐待する親だけの問題ではないと思います。障害をもっている人に優しくしようとか、いじめをしないようにしようとか、そういう個人的な問題ではなく、障害のことも、いじめや虐待のことも、そして、脳死のことも、全て、「いのち」を取り巻く社会の問題で、私たちが、自身を問うていかなければならない問題だと思います。臓器移植をした人や選択的中絶をした人を責めるつもりはありません。私たち皆が、命に優劣をつけようとしていないか、誰かを排除しようとしていないか、自分の心に問い続けなければならないと思うのです。アナタもワタシも、今ココに生きている、その尊さが出発点だと思います。

ひとこと

望は高校最終学年なり、進路を進学と決めました。7月からオープンキャンパスに行き始めました。模擬授業をイキイキと受ける望を見て、元気づけられている私です。詳しい報告は、次号にて。

ゆかた、似合う?

157号 見出しへ戻る 159号