第9号
1996年10月
文:向井
裕子、WP:向井 宏、裕子
3才の誕生日に
10月14日で、望は3才になります。産まれた時には驚かされたその手足の無い身体は、今、私達には普通で当たり前の様に感じられるようになっています。丸くて歪んだ胴は、白く滑らかで、何ともいえぬ曲線を描き、時々、美しいと感じます。抱き上げれば、暖かで柔らかで、でもずっしりとしたその程よい重みがいとおしく思われます。1才の頃に「これから段々かわいくなるよ」と言われ、「今、充分にかわいい」と思っていましたが、本当にますますかわいくなりました。
望は、まだ言葉を全く出しませんが、YES/NOは、はっきりしてきました。YESは手を前に出して、NOは首をいやいやと振ります。でも時々、「はやくしてくれなくちゃいや」といういやいやもあります。水ちょうだい、牛乳ちょうだいをそのYES/NOで訴えます。3才までにやめさせるつもりだったおしゃぶりも、以前は「おしゃぶりがほしいよー」と布団の上でひたすらぐずぐずあーあー泣いていたのが、私を見て手を前に出し「アッアッ」と「おしゃぶりちょうだい」と訴えます。わざと「何?お水?」と聞くと違うと首を振って、手を口に当て、また「アッアッ」と訴えます。私がおしゃぶりをするまねをして「おしゃぶり?」と聞くと「フフッ」と笑います。「ちょっと待ってね。今取ってきてあげるから。」と言うと納得して待っています。時々、おしゃぶりを持っていかないで様子をうかがっていると、おしゃぶりが来ると安心してか、そのまま寝てしまったり、待ちきれなくなって「アーアー」と大声で呼び始めたりします。
この一年の間に、表情はあいかわらず豊かではありませんが、感情は豊かになってきたようで、よく笑ったり、怒ったりするようになりました。笑いすぎてシャックリが始まることもあります。自分の思い通りにならなくて、聞く耳持たぬと手をバタバタさせ泣き怒る望を、私はたたいてしまったこともありました。後でものすごい自己嫌悪に陥りました。この頃は、どんなに望が泣き怒っていても、ゆっくりと話しかけ、しっかり抱きしめれば落ち着いてくれることを望に教えられました。感情が豊かになるとともに、体での表現も豊かになり、少し積極性も出てきました。一時しなくなっていたバイバイをしてくれるようになりました。音楽に合わせて、手を上下してリズムを上手にとるようになりました。テレビの体操や保母さんの真似をして手を動かしたり、頭を揺らしたりするようになりました。療育センターのお帰りの会でよく歌われる「むすんでひらいて」の歌では、最後の「その手を上に」の前になると手を上げるようになりました。スイッチを使っておもちゃを動かして遊んでいます。自分も何かしたいという気持ちが強くなって、手を前にだし「アッアッ」と言って要求します。手を洗うこと、電子レンジのスイッチを押すこと、ドアの開閉や玄関のチャイムを鳴らすこと、自動販売機で缶ジュースを買うこと。夕方にカーテンを閉めるのは、望の仕事となり、卵のかきまぜもしたい、あげくの果ては、包丁で豆腐まで切りたいと要求しました。お母さんのすることは何でも、私もしたいという感じです。抱っこして、望の右手でいろんな事をする真似をさせる私も大変ですが、これはうれしい悲鳴です。(おかげで最近、肩凝り、腰痛、手や背中の筋がちがったりして、日頃の運動不足を痛感しています。)でも、まだまだ療育センターではその積極性は発揮されていません。お友達のすること、私もしたい、私も参加したいと一生懸命に手は上げているのですが、全く声が出ません。「『ハーイ』と言わないと誰も気付いてくれないよ。」と言っても、なかなか家のように手を上げて「アッアッ」といかないようです。でも、お友達に圧倒され、キョロキョロしたり、泣いたりしてばかりだった昨年に比べると、とても積極的になりました。
望はこの一年、本当によくがんばりました。生まれて一年目も手術を乗り越え、ずいぶんがんばりましたが、あの時は、私は望ならがんばれるだろうと思っていました。でも、この一年のがんばりは、驚かされるものでした。望を育てたというよりも、望に引っ張られ導かれたという思いが強くしています。1月15日のずりばいは忘れられません。「お母さん、しっかり。がんばれ。」と言われたような一年でした。望、3才。これからは少し将来のことを考えながら様々な選択をしようと思っています。望にとって、家族にとって、良い選択をしていきたいと思っています。そして、やっぱり前を向いて生きていきたいと思っています。望の魔法の右手が、今度は何をしてくれるのか、どんな人に出会わせてくれるのか、楽しみにしながら。望、3才おめでとう。今年もいろんなことして、楽しくいこうね。望のしたいこと、たくさん教えてね。
望の誕生 その3
平成5年10月18日。その日、雨だったのか、晴天だったのか覚えていない。朝だったのか、昼だったのかも覚えていない。けれど、はじめて望に会ったあの時のことを私は決して忘れはしない。赤ん坊と対面するかどうかを聞きに来たのは産婦人科の医師だった。産婦人科医2人と夫とに連れられて、私はNICU(未熟児センター)へ行った。NICUの入り口では入念に消毒をして、マスクをし、病衣の上に水色の服を着た。赤ん坊は、少し黄ばんだバスタオルに包まれて、小さなベッドの中にいた。充分な髪の毛。小さな目と口。おでこから鼻にかけてが赤味を帯びていた。(後になって、それがあざだと気付いた。)はかなげで、いとおしくて、涙があふれそうだった。抱きしめて、「よくがんばったね」と泣きたかった。
しかし、ベビーベッドは産婦人科と小児科の医師が2人ずつ、NICUの看護婦、そして夫が取り囲んでいて、彼らの見守る中で娘と対面した私は、必死で涙をこらえた。NICUに入る時、私は身体だけでなく、心も覆い隠し武装したかのようであった。心とうらはらに、しっかりと冷静な私がそこにいた。誰も何も話さない。私はタオルを取って身体を見せてもらって良いかと医師に尋ねた。小さな右腕だけを持ったC字に歪んだ胴が現れた。「あぁ」と心の中で私は思った。ただその現実だけを受けとめていた。何も考えられなかった。生れてから今まで、情けない思いや苦しみを乗り越える度、私は少しずつ強くなってきた。(と思う。)受験競争や恋愛や男性優位社会での仕事、そして流産、不妊、産まれくる子の死の宣告、それらすべての哀しみがすべて今日という日を乗り越えるためにあったかのように思われた。
妊娠8ヶ月のあの日、胎児の足が見えないと医師に言われ、その翌日、ハイリスク外来での長い超音波検査の後で、胎児は手足が短く胴が細いこと、骨の病気の可能性があること、たとえ無事に産まれたとしても生きていくのは難しいだろうということを告げられ、覚悟をして下さいと言われた。その日から2ヶ月間、私は医師の言葉に従い仕事を休み、毎日を産まれてくる赤ん坊の着ることのないかもしれない宮参りのドレスやお包みを縫い、少しの散歩と昼寝をして静かに過ごしながら、赤ん坊の声に耳をすましてきた。毎週の診察で覚悟して下さいと言われる度に辛かったが、日々の生活は静かで一見平穏に思えた。ほとんど胎動は無かった。でも、時々かすかに動いた様な気がしたり、よくシャックリ(後で看護婦がシャックリだと教えてくれた)をしていた。赤ん坊は、お腹の中から、産まれたいよう、生きたいようと私に訴えているように思われ始めていた。予定日が近付いて私達は子供の名前を考えた。なんとか生きて行って欲しい、たとえ障害をもって産まれても希望を持って強く生きて欲しい、私達の待ち望んだ大切な子供だという気持ちをこめたいと思った。
10月18日の事を私は次のようにメモをしている。「赤ちゃんと対面する。右上腕がかろうじてあるだけ。両足は無い。(中略) ここまで見事に無いと悲しみを通り越し、その生命力に驚く。(中略) 少し抱かせてもらう。ミルクを15CC与える。 (後略)」そして、私の冷静さに驚く夫に、ここまで手足が無いなんて泣いている場合じゃなくてがんばるしかないと思ったと言ったのを覚えている。私は悲しくはなかった。不幸だとも思わなかった。娘がかわいそうだとも、申し訳ないとも、変わってやりたいとも思わなかった。この腕に抱いた娘は、暖かでこわれそうだった。覚悟しなさいと言われ続けたのに、こんなに元気に産まれてくれた。母性本能のかけらもなかった私は、娘を守る母になっていた。娘は手足の欠損、背骨の歪み、鎖肛があるが、内臓や脳は問題無いだろうと医師に言われた。それでも医師は、鎖肛のためか娘の命を3ヶ月か6ヶ月かと言った。きっと娘は生きていく、死んだりなんかするものかと私は心の中で思っていた。私達は、娘を「望」と名づけた。娘が大きくなったら、あなたは私達に望まれて産まれてきた子なのだと話してやろうと思った。産まれた時は、3日ともたないと言われた望は、3才の誕生日を迎える。
ひとこと
1才までは、手術入院があったり体温調節がうまくいかなかったりしたものの、風邪もほとんどひくこと無く、また手術後の回復も非常に良かったりして、望は体力のある元気な子だと思っていました。しかし、この2年間はよく気管支炎や肺炎を起こしました。今も喘息性気管支炎で、咳をしたり喉がゼロゼロいっています。体調が悪くても、食欲は落ちること無く入院まで至ることも無いのであまり心配はしていませんが、気管が弱いようです。病院では喘息気味だと言われました。
生後3ヶ月、本当に手のかからない子だった望は、この3年の間に私の体力的な負担を大きくしてきました。慢性睡眠不足で療育センターに母子通園し、保育や訓練を一緒に行うこと。1日に2回以上の導尿を行うこと。家庭用吸入器での吸入をすること。耳鼻科、眼科、泌尿器科、外科、脳外科、そして小児科への通院。大きなエネルギーを要しますが、私は辛くはないし、不幸だとも思っていません。(時々、疲れて、少しの心身の休養が欲しい時はありますが。)
ボランティアさんも来て下さって、これからはもっと育児が楽しめるだろうと思っています。9月は、勘原さん、末信さん、小濱さん、菊永さん、上野さん、塚本さんが来て下さいました。また、先日は、9月はお休みされた津田さんも一緒に7人全員でケーキや花束や色紙を持って集まって下さり、少し早い誕生日会をにぎやかに行ってくださいました。心よりお礼申し上げます。
望が産まれた日、誰も「おめでとう」とも「良かったね」とも言いませんでした。3年経って、望はたくさんの人達におめでとうを言ってもらえるようになりました。これからもたくさんの人々に支えられて、感謝しつつ、望も私達も幸せな人生を送っていくことができたらと願っています。