のんちゃん 便り
第99号 2004年 6月
いのち
第65号(2001年6月)に「いのちの重さ」という題で、出生前診断のことなどを書きました。お腹にいる子どもが障害をもっていることがわかったらどうするか、という問題は、私たちに「いのち」に対する価値観を問う厳しい選択を突きつけます。この頃では、出生前診断どころか、着床前診断までが、暮らしの中に入り込もうとしています。男か女か、障害児か健常児かの選択が「ニーズ」とされ、選別され捨てられる「いのち」は、研究材料という資源になる現実に、改めていのちの重さを考えさせられています。
障害は不幸だという社会一般の価値観が、治せない障害は「予防」するしかないと、医師や研究者に思わせるのでしょうか。重い障害をもって生きていくのはかわいそうだから、善意でその小さな命を消そうとするのでしょうか。でも、かわいそうと思っているのは、障害児自身ではありません。望が産まれた時、夫は「子どもがかわいそう」と考え、医師に「殺してください」とまで言いました。今、夫は、どんなふうに思って望と暮らしているのでしょうか。少なくとも、望がかわいそうとか、自分たちは不幸だなんてことは思っていないでしょう。そして、あの時、「かわいそう」と思ったのは、望ではなく自分だったと、障害児の父になる自分がかわいそうと思ったのだと、気づいているはずです。毎日、いきいきと学校に通う望を見ていると、「わたし、毎日楽しいよ。生きてるって幸せなことだね」と言っているように感じます。私たちは、たまたま障害をもって生まれた望に、「いのち」の尊さや重さを教えられてきました。障害をもって生きていくことが不幸なのではなく、障害を理由に分けられたり、切り捨てられたりすることが不幸なことだと感じてきました。
医学や科学が進んで、もし、望の手や足をつけることのできる治療を受けないかと言われるようなことがあっても、私たちはそれを拒否するでしょう。命をかけたり、実験台になったりしてまで、障害を無くす必要などありません。障害をもっていようがいまいが、望が私たちの大切な子どもであることに変わりはありません。友だちにとっても、「手足のないのんちゃん」が当たり前なのです。望は望のままでいいのです。手足があろうがなかろうが、命の重さに変わりはないのです。
妊娠8ヶ月の時に、生まれても育たないと言われた命、産まれても、3日もつかどうかとか、3ヶ月、6ヶ月などと言われた命が、こんなにもしっかりとパワーをもって生きています。そして、それは障害児の世界では、珍しいことではありません。長く生きられないと言われた子が成人したという話もよく聞きます。先日も、1歳までは生きられないとか、植物状態で生きるよりも亡くなったほうがいいだろうから延命処置を施さないとまで医師に言われたというお子さんに会いました。2歳になり、家族とともに地域で暮らし始めています。医師に、見えていない、聞こえていないと言われる子どもが、家族の姿や声に反応するという話も聞きます。医学や科学では計り知れない子どもの命の不思議さと強さを感じます。その一方で、もろくて弱い命も感じます。病気や事故によって、あっけなく消えていく命もあります。でも、どの「いのち」も、その重さには変わりはないのです。
小さな命が奪われる事件の報道が続いています。子どもが簡単に子どもを殺したり、親が虐待によって子どもを殺してしまったりする事件が相次いでいます。感情を殺害という行動に移してしまう子どもや、虐待という行為を自分で制止できずに、行き着くところまで行ってしまう親達の中に、社会の歪みを感じ、彼らを責めることなどはできないと思います。でも、友達や両親に殺された子どもは、その時、何を思ったのだろうか、虐待を受けた日々に、何を感じていたのだろうかと胸が痛くなり辛くなります。
先日、障害をもつ子どもの姉が虐待されるという事件がありました。以前には、障害をもつ娘が、介護に疲れた父親に殺される事件もありました。確かに、親を孤立させ、虐待がおこる状態を作った社会や、介護を親に抱え込ませた社会に問題があります。親も苦しんでいたに違いありません。それでもなお、同じ障害児の親として、子どもはどんな思いだったのかを考えなければならないと思っています。かつて、「親は敵だ」と言った障害者達の言葉をしっかりと受けとめ、自分自身を戒めなければと思っています。かけがえのない「いのち」がいきいきと生きていくために、障害児の親である私たちがしなければならないことは、まだまだたくさんあると障害児の母である友人と話しました。
今、病院で、地域で、必死に生きようとしている子どもたちがいます。私は、毎日を懸命に生きている望を感じながら暮らしています。「いのち」そのもののような子ども達がいます。その命自身に何かをしてやれるような力は、私にはありません。でも、周りの環境を変え、周りの人の意識を変える努力はしていかなければと思っています。障害児の親になった使命でしょうか。いえいえ、そんな大袈裟なことではありません。みんなでつながって楽しく暮らしていきたいだけなのです。どの「いのち」も幸せと思って生きていける社会となることを願っています。
ひとこと
先日、「人権」っていったいなんだろうと考えることがありました。自分に非はない思わぬ出来事に傷つき、自分にはどうすることもできない状態に悩みました。傷ついた心を癒してくれたのは、まるで自分のことのようにその出来事に対して怒り、私を心配してくれた友人知人たちでした。人権と名の付く仕事をしている友人たちもその中にいて、複雑な思いだと言ってくれました。
以前、お酒の席で、そよ風のように町に出ようと運動をしてこられた方が、大学で人権を教える友人に、「人権学会をつくろう」と言われたことがありました。学会ができるほど、人権は深くて広くて難しいものなのでしょう。私には、難しいことはわかりません。でも、ひとりひとりの命を大切にすること、ひとりひとりの思いを大切にすること、そういうことから始まるように思うのです。
大学で福祉を教える友人が、今の福祉には「いのち」が欠けていると感じると言いました。そういえば、福祉や教育の資格をとるために、大学で、人権の単位は必須にはなっていません。私たちは、「いのち」とか「人権」とか簡単に口にするけれど、それがもつ重みをもう一度、しっかりと考えなければならないと感じています。
初めての調理実習の授業。真剣なまなざしです。