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のんちゃん 便り

124  2006年12月

寄り添って

保育所から小学校に上がったとき、学校はなかなか大変なところだと思いました。保育は包み込む感じ、教育は指導する感じ、保育と教育はそんなに違うものなのかなあとため息が出ました。でも、先生方と信頼関係ができてくると、やがて大変さを感じなくなりました。中学に入学して、またまた大変なところだと思いました。上にあがるにつれ、その大変さが大きくなるような気がしました。小学校から中学校と、年齢が上がるにつれて、子どもの社会も能力主義になっていきます。そんなしんどさだろうかと考えてみました。でも、望は中学生になってから勉強ができなくなったわけではなく、私たちは望の学力を他の生徒と比較することもないので、そういう大変さとも少し違うようです。

では、その大変さはどこからくるのでしょう。望と友達との関係は、学校が変わっても大きく変わることはありません。変わったのは大人との関係です。思いが伝わらなくてストレスを抱える望を見ながら、私自身も「伝わらない」もどかしさを感じていました。入学前から、「話し合い」の場に行っても話し合いにならないこともしばしばあり、困惑しました。一方通行なのです。ボールは投げてこられるけれど、こちらが投げたボールは受取ってもらえないように感じました。そして、いろんなことに意味づけをしなければならないことにも戸惑いました。「友達と一緒にいたい、分けられたくない、それが基本で、一緒にいながら、その時その時、場面場面で、柔軟に対応していけばいい」などという私の理屈は通用しないのです。

問題の1つは、学校という体制や体質といったものにあるのかもしれません。先生一人ひとりは、話してみれば良い方達なのです。組織になった時に何かが違ってくる感じがします。もう1つは、コミュニケーションの問題ではないかと私は思いました。言葉のない乳児や言葉をうまく扱えない幼児とかかわる保育士達、言葉でうまく説明のできない児童と関わる小学校教師達、そして、言葉を操ることのできる生徒と関わる中学校教師達、その違いではないだろうかと思うようになりました。教育現場では、いろんなことが言語でかたづけられてしまうように感じます。そんな中で、教師が「話す」のではなく、「言う」ことで終らせてしまう場面も多くなっているのかもしれません。また、入学前、先生方が望と面白がりながらかかわってくださるといいなと思っていました。でも、○か×かの指導がされる学校では、子どもの行動を面白がる以前に「問題行動」としてとらえられたりします。問題行動は言葉が伝わらないがために起こることが多いので、行動が問題なのではなく、その原因が問題なのですが、目で見える行動で判断されて、そのわからない言葉による指導がされることがあるように感じました

望には、ほとんど言葉がありません。ですから、どんなにわかりやすく言葉で説明をしてもわからないものはわからないのです。コミュニケーションは言葉だけのことではありません。望のコミュニケーションの力は相当なものだと私は思っています。でも、コミュニケーションは、相手がいて成り立つものです。相手にコミュニケーションの力がなくては成り立たないのです。言葉にとらわれないことの大切さに気づいた時、教師が望と信頼関係を作り始めると思ってきました。入学して半年以上が経つと、望のストレスは減ってきたようでした。先生方との信頼関係を築き始めたのでしょう。

望と暮らしながら、言葉に頼るコミュニケーションの脆さを感じてきました。言葉の裏にある想いの大切さを感じてきました。コミュニケーションは想いのキャッチボールです。でも、心を通わせるためには大きなエネルギーが要ります。心を寄り添わせることが必要です。そこには、「言葉」という道具の問題ではなく「価値観」の問題が影響してきます。私達は人と向き合う時、自分の価値観を通して相手を見ます。自分の基準で相手を評価してしまいがちです。相手を受け容れるには、広く柔軟な価値観が必要になります。

望が生まれ、初めて腕に抱いた時、望の真っ黒な瞳がじっと私を見てきました。見詰め合ううちにいとおしさがこみ上げてきました。それが望とのコミュニケーションの始まりだったと思います。目と目で、身振りをしながら、望と会話してきました。手足がなく、表情の乏しい望ですが、その動作や表情から、望の想いがたくさん伝わってきます。望の想いがいろんな人に具体的に伝えられるようにとコミュニケーションエイドも使ってみました。聴覚障害の方が手話を使うように、ひとつの手段として機械を使うことは、特別なこととは思いません。コミュニケーションの手段は、いろいろあっていいと思っています。言葉も単なる一つの手段だと思っています。その手段にすぎない言葉に振り回されたり、支配されたくないと思うのです

友人が「健常者の言葉を発することができない人たち、それらの人が使う言葉を1ランクも2ランクも下のものとみなし、それは言葉のみならず、人間存在そのものにもつながっていると思う」と言いました。今の社会は、言葉を発しない人の方に問題があるとされ、言葉を使う人が高みから見下ろしているというのです。そうだとしたら、言葉を使いまわす集団になればなるほど、言葉を持たない人への差別は大きくなるのでしょうか。成長につれてもっと大変になっていくのでしょうか。結局、多数の人が使う言葉によって支配され、少数派の人達は差別されているのでしょうか。

そんな社会だからこそ、人の想いを大切にしていきたいと思っています。想いを受け取るために寄り添っていきたいと思っています。来年も、自分の価値観と向き合いながら、人の想いを受取る努力をしていこうと思います。たくさんの出会いに感動しながら、たくさんのつながりに感謝しながら、また次の1年を歩んでいきたいと思います。

ひとこと

なんとか12月号を発行することができました。今年は10号しか発行できませんでした。私が書く時間が取れなかったこともありますが、だんだんと書けなくなってきて、産みの苦しみという感じで作成をしています。望の周りの面白いハプニングが少なくなったわけでも、望への想いが少なくなってきたわけでもないのです。いろんなしがらみや複雑な思いが増えてきたのかもしれません。

今年もお世話になりました。ありがとうございます。良い年をお迎え下さい。

大嫌いな歯科治療も訪問歯科で歯医者さんと時間をかけて
信頼関係をつくり、無事治療できました。
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