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のんちゃん 便り

第154号 2011年 6月
昔を思い、いま

小学校の同窓会の案内が届きました。私の「小学校時代」はもう消えそうな記憶です。記憶力の悪さはさておき、幼き日々の思い出が遠くなった理由を考えてみました。1つは小学校卒業後に「地域の学校ではない中学校」に行き、地元の友達との付き合いがほとんどなくなってしまったこと、もう1つは学校卒業後に故郷を離れ、今ではあまり帰郷することもなくなったことだと思います。中学や高校からの仲良しの友人たちもまた故郷を離れて暮らしています。つながりが切れてしまうと、思い出も、そして、思い出の地も遠くなっていくように感じます。そんな体験から、望の学校選択を「地域」にこだわり続けてきたのかもしれません。幼馴染の友達との関係が続いていくように、地域の学校で友達の中で育っていくことの大切さや、地域の中でいろんな人と出会いつながることの大切さを、私は心のどこかで感じ続けていたのでしょう。

最近、「伝える」ことの難しさに、文章がなかなか書けないので、今号は、昔を思い出し、思いつくままに綴ってみたいと思います。

その1.

「やればできる」「できることはいいことだ」と教えられて育ってきました。学校では、勉強すればしただけ良い点が取れ、高い評価がもらえるかもしれません。成績(結果)だけで評価される「学校」では、自分が人よりエライ人間だと思い込むような人間が育つのではないかと心配です。社会に出れば、頑張りと結果が比例するとは限りません。例えば、会社では、自分が努力して作成した資料も、そのデキの良し悪しに関係なく、時には、上司やお客さんの気まぐれで没になることもあるわけで、怒りをぶつける先もなく、次を頑張るしかありません。頑張っても報われないことや、頑張れないときもあると学びました。

望を生んで、「できることはいいことだ」という価値観が崩れました。「できる・できない」という能力ではなく、ここにいる「存在」そのものが尊いのだと気づき、「生きること」を考えさせられました。それを私は学校で学ぶことができないで育ちました。今は、学歴が高かろうが大企業に入ろうが、何が起こるかわからない時代です。にもかかわらず、能力や結果で評価をし続ける学校現場が大きく変わらないのはなぜでしょう。保護者のほうも変わってないのかもしれません。

私は、親から「できる」ことを求め続けられて育ちました。望を生んで、ありのままの望を受けいれた時、私は「ありのまま」を受けいれてもらえなかった自分に気づきました。親を責めるつもりなどありません。親は親の価値観のもと愛し育てたのです。よくある話です。家を出たのは、親の抑圧からの解放だったのだと思います。ありのままを受けいれ、声(思い)を聴くこと。ありのままに受けいれることも聴くことも、難しい。「ありのまま」に寄り添うことなく、「わかっているつもり」になることが一番怖い。自分の価値観で娘の人生を決めないようにと、自分の価値観に向き合い、強いて揺らいできました。娘の思いを聴き、代弁する努力をしなければと思ってきました。そしてまた、ありのままの娘を受けいれながら、ありのままの自分を受けいれ、自身が育ちなおしをしているように思います。

その2.

私は、計画を作るのが好きな子どもでした。1日のスケジュールとか長期休み中の計画など、細かに頑張って作るのですが、それが実行され満足することはありませんでした。いい学校に行き、いい会社に入り、仕事も子育ても両立していくのが、私の人生設計でした。なんて…、何が「いい」のかも考えぬままに。今でも、いろいろな計画を作っていますが、大人になるにつれ、計画の捉え方は大きく変わりました。「ひと」の計画は、大雑把な指針であって、人が計画に縛られたり左右されたりしては意味がないことや、生活(時や人生)の流れの大切さにも気づきました。

望は、暮らしの中に「ケア」があります。ケアの方法について、「排泄は何時間おきにどのくらい出るか」とか、「水分補給は何分おきに何㏄」とか聞かれることがあります。戸惑いつつ、一応目安だからと応えはしますが、あまのじゃくの私は、「あなたは一定時間おきに、量って水分を摂っているのですか?」と逆に質問したくなります。望は2時間おきに導尿をしていますが、おおよそ2時間の生活の区切りの良いところでしますし、水分補給も暑ければ喉が渇いて頻繁に飲みたいでしょうし、その場の状況によりタイミングを見計らいながら介助します。障害児者は、ケアが生活を分断しても良いなんて思われてるのかなあ。ケアだけを取り出して考えるから、「その『人』の育ちや暮らしが見えてこないのでは」と思うことがあります。皆さん、柔軟に曖昧に暮らしていますよね、きっと。

幼い頃、設計図通りにすれば人生がうまくいくかのように思いこんでいた私は、いつの間にか、何が起きるかわからないのが人生と思うようになりました。その時その時、悩んで選び、歩いてきた道が人生になっていくのだと、今は思っています。

その3.

社会科が苦手で、「基本的人権」を習っても文字面だけを読んで終わり、「人権」で教えられたことは部落差別という言葉くらいしか記憶になく、おまけにそれは「道徳」の授業だったような、なんてあり様で社会に出ました。競争社会で育ち、強く早くを善しとして優位に立とうとするような人間になっていました。だから、「先生」と呼ばれる仕事に就いては自分は危ないと感じて、進路選択をしたのかもしれません。男性優位の会社で、女性の権利を主張することなく、「女だから」という言葉に負けまいと頑張りました。望を生むまでの私は、いのちや人権のことが全くわかっていませんでした。望を生んで、障害児の親として扱われ、そこで、ようやく「人権」の重さに気づいたのです。でも、女性として、障害児の親として、差別を受けた私は、娘や障害当事者の方々と向き合い、自分が差別する側にいる人間でもあることを自覚し、そのことに向き合わなければとも思いました。今、自分に向き合い、人に寄り添い、相手の思いを聴くことの大切さを思います。

娘から多くのことを学び、育てられてきました。そこから、自分のすべきことを考え動いてきました。目の前の子どもから学び、「いのち」を感じることのできない大人たちに、なにをどう伝えればよいのでしょう。

ひとこと

「人権」博物館がリニューアルしたので見学に行きました。部分的に、「福祉」館?という印象を受けました。学芸員が変わったのではないでしょう。もしかして、何かの圧力? 人が生きていく「権利」より、「権力」の方が強くなったりしませんようにと願っています。

料理教室やオープンキャンパスや…、やりたいことたくさんで、大忙し!日記をつけ始めたよ。望

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