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のんちゃん 便り

第36号 1999年 1月     文:向井 裕子

あけまして

  おめでとうございます

新年を迎えて

明日が今日になるだけのことと毎年思いながらも、昨年一年間の様々な出会いや別れを振り返り、新しいこの一年になにかしら期待して胸を膨らませてしまうお正月です。そして、初詣に行って手をあわせると、いい年でありますようにと願うと共に、さあ今年もがんばろうと思えてきます。

昨年は、望の腎臓の肥大と留置カテーテルとでなんだか落ち着かない日々でした。そんな中でも望は楽しそうに保育所に通い、プールで顔つけをやってみんなを驚かせ友達を刺激したり、ままごとで友達と心を通わせ合ったり、ドッチボールでおてんばぶりを発揮したりと、ずいぶん私達を楽しませてくれました。生活発表会、遠足、夏祭り、運動会、餅つきといろんな行事にも参加することができました。プライベートでは、3月のパラリンピック、8月の先天性四肢障害児父母の会全国総会と2回も信州まで行きました。夏には奈良の大塔村での恒例のキャンプにも行きました。神経因性膀胱に悩まされながらも、振り返ってみると元気に行事フル参加で一年を過ごしました。

また、昨年もいくつかの出会いがありました。私達は、電動カートの前進バックだけでなく方向転換を可能にするという改造で頭を悩ませ続けていましたが、工業高等専門学校(工専)の学生さんの卒業研究で、望の使える電動車椅子を作成してもらえることになり、昨年の秋から先生や学生さん達との交流が始まりました。学校を訪ねたのはまだ2回ほどでもっぱらEメールでのやりとりが主ですが、工業の専門の方々に福祉に関心を持っていただけることはありがたいことですし、若い人達に望のことを知ってもらえることはうれしいことです。3月が楽しみです。それから、「のんちゃん便り」のホームページのことが口コミで伝わって、いくつかの障害児者団体の方々からメールをいただき、それらの団体のホームページのいくつかからリンク依頼がありました。多くの親達の熱い思いを感じることができました。インターネットを通じての出会いや意見交換もありました。一つ一つの出会いを今年も大切にしていきたいと思っています。

さて、今年はどんな一年になるでしょうか。望は、春には進級して年長さんになります。就学先を決める年です。友達と一緒の小学校か、それともそのすぐ近くの肢体不自由児の養護学校か。プールで顔つけをしたりドッチボールに参加したりしている望を見ていると、友達の影響力の大きさを感じずにはいられません。皆がやるから、いやなこともがんばる望です。でも、今の制度での小学校の教育に不安もあります。いじめ、暴力や非行等など、小学校の抱えている問題は山積みで、重度の障害児を受け入れるゆとりがあるのだろうかと思ったりもします。子ども達の心が荒んでいるからこそ、重度の障害児を入れることに意味があるとも思いますが、望自身の成長のためには実際どうなのだろうと考えます。小学校にはスロープやエレベーターが設置されていてハード的な面では問題は少ないとは思いますが、身体的な不自由さと知的な遅れとを重複している望とどう向き合ってもらえるのかが問題になります。また、導尿という「医療的ケア」の問題もあります。自己導尿は、毎日の生活のひとつの習慣で「日常生活行為」だと言って下さる看護婦さんもありますが、なかなか周りの理解を得るのが難しいようで、「医療行為」でもないのに「医療」という言葉に困惑するのか、医療関係者か親がするものと思いこんでいる所が多いようです。親は、医療関係者ではなく、他の人と同じで素人なのですけれど。学校選択には、そのあたりの対応も問題になるかもしれません。悩み多き選択のようですが、じっくり望と向かい合い、それぞれの学校を訪ねているうちに答は出てくるだろうと思います。

そして、今年の夏は、先天性四肢障害児父母の会全国総会が大阪の舞洲(まいしま。オリンピック候補地の予定会場)で開かれます。5歳以下の子どもの遊び相手のボランティアを募集中です。保母さん、看護婦さん、その卵さん達、大阪近辺の方々ご協力ください。自分達が参加して作っていくだけにどんな総会になるのか楽しみです。

今年は、就学先の決定など多くのイベントがあります。でも、いつも通りマイペースで、望が、保育所に行って友達や保母さんと遊んで給食を食べて、一日の楽しみをいっぱい持って帰宅するという日々を元気に繰り返し、夏にはプールにたくさん入れるようにと願っています。お祭りよりもまず一日一日の生活を大切にして、望と元気に楽しく暮らしていきたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

深く生きる

昨年、あるテレビの番組で、ある病院の院長が「命にとって大切なのは、長さではなく深さ」だと話していました。その病院では、患者さん達は命を永らえようとしているのではなく深めようとしているのかもしれません。なにげなく見ていたテレビから投げかけられた「いかに長く生きるかではなく、いかに深く生きるか」というその言葉は、私の心に深く染み込んでいきました。短い生涯でも、深く生きれば、それはすばらしい人生だったのだと思いました。たとえ生まれて一週間しか生きることができない子どもでも、精一杯生きて、誰よりも深く生きて逝くのかもしれないと思いました。そして、そのわずかな間でも、誰かがその子を抱き慈しむことができれば、その子はより幸せだったのではないかとも思いました。そんなふうに考えると、この世に無駄な命はないと、生まれてこないほうがよかった命なんてないということが、改めてわかります。

望は、時々「幸せな子ね」と言われることがあります。私達は、望ではないので、そして、望は話すことができないでいるので、幸せかどうかはわかりません。でも、望の様子を見ている限り、たぶん不幸ではありません。生まれた時に、かわいそうな子、不幸な子と幾人かの人に思われたであろう望は、いつのまにか、幸せな子と思われるようになりました。それは、今になって望が幸せになったということではなく、周りの人々が長い時間をかけて、ようやく望の命の尊さに気づいたということなのかもしれません。

そして、その命の尊さは、望に限ったことではなく、すべての子ども達に、すべての人々に同じように与えられたものなのだと今更ながらに、望との暮らしの中で教えられます。私達も、より深く生きていくために、命の尊さを感じながら、大切に人生の時間を生きていきたいと思います。

ぺったん、ぺったん。「わたしは、お餅を見てるより、 

 みんなの顔を見てるほうが楽しいのよ。」 のぞみ

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