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のんちゃん 便り

第61号 2001年2月

お手伝い

望は、小さな頃からお手伝いが大好きでした。歩くこともできなくて、物を持つことも難しいのに、どうしてと思われる方があるかもしれません。「できない」ことと「やりたい」という思いとは、別のようです。洗濯物を取りこめば、ハンガーを持ちたがり、洗濯物を運びたがります。掃除をすれば、掃除機を使いたがり、雑巾がけをしたがります。それは今でも変わっていません。望にとって、お手伝いは、模倣であり、遊びの一つなのかもしれません。

食べることが好きな子なので、台所にも入りたがります。電子レンジのスイッチを入れたり、ピーラーでジャガイモの皮をむいたりします。包丁も使いたがるようになりました。時には、玉葱を切って、目をしょぼしょぼさせて、『おしまい』と言ったりもします。私が手を添えて「やったつもり」のお手伝いですし、自分1人でできるようになるわけではありませんが、何でも経験と思ってさせています。望に手伝ってもらうと時間も労力もかかってしまうのですが、望の気持ちを大切にしたいと思っています。

昨年、テレビのない生活をしていた時、毎日のように一緒に夕飯を作りました。まな板の上のものを包丁で切る時は、少し切ったら包丁を右に滑らせて、切ったものを寄せることまでします。もちろん私が手を持ってしていますが、自分の意志で強い力で動かしてくるので、私は手を切られないようにとひやひやです。また、「これは熱いからだめ!」と言っても聞かず、望の右手を近くまで持っていって『熱い』ということを教えようとしたら、誤って手の先が触れて、やけどをさせてしまったこともありました。小さな水ぶくれができてしまいました。ひどい親です。それでも望は、台所のお手伝いをやめません。昨年暮に私がダウンした時、食事の片付けをしていた夫が「これどこに片付けるんだった?」と聞きました。「望に聞いて」と私は答えました。教えたわけではないのに、食器から、ボールやお玉、はしやスプーンの収納場所まで、望はちゃんと覚えているのです。

小学校の「せいかつ」の時間に、「家族」のことを勉強したようです。そして、「おしごとカード」なるものができました。家で「自分のしごと」をしたら、カードに色を塗っていくのです。それが宿題なのです。初めて「おしごとカード」を持ちかえった時、私は、「ハ~ァ、そういう時代なのか」とため息ついたのですが、私の友人は、「エーッ!何それ!親は何しとるの」と叫びました。独身の彼女には、今の子ども達の現状が信じられないことのようでした。私だって「普通の子ども」を育てたことがありませんから「テレビゲームばかりしないで宿題しなさい」という親は想像できますが、「手伝いなさい」という親がどれくらいいるのかはわかりません。

私達の子どもの頃は、手伝いは、権利でも義務でもなく自然のことでした。いえ、私達が育った高度経済成長の頃から変わってしまったのかもしれません。たまたま私が、「かぎっ子」だったから、言われなくても手伝いをせざるをえない環境にあっただけなのかもしれません。かつては、家族は大人数で、兄弟も多くて、子ども達も助け合い手伝いをしなければなりませんでした。でも、核家族や少子化が進み、一部では「父親は外で働き、子どもの世話や家事は全て母親がして、子どもは勉強をする」という構図ができてしまいました。でも、勉強は、家族のためでなく自分自身のためにするものです。子どもは、家族の中で、自分の役割を失って、自分の居場所も見失ったのかもしれません。ちょっと飛躍し過ぎかもしれませんが、そんなふうに考えると、手伝いという宿題も必要となってくるのかなあと思いました。

少し話は変わりますが、昨年、首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」の中間報告で「奉仕活動の義務化」というものが出てきました。多くの反対があり、それはなくなりましたが、その「奉仕活動義務化反対フォーラム」に行った時、「大人は子どもにいろんなことを強制しているのではないか」とか、「子どもにもっと義務を課すべきという考えが大人の中にあるのではないか」という意見が出ていました。大人が子どもを敵視している環境では、人の命を大切にする心は育たないということだと思います。

手伝いは、この「奉仕活動」とは違いますが、義務とするものではなくて、親のほうから「これ手伝って」と自然に関わっていくものだと思います。子ども達は「手伝いをしたくない」と思ってはいないと私は感じています。学校の帰り道に「のんちゃんは、なにを手伝っているの」と友達が聞いてきました。「洗濯物の片付けやお料理」というと、「えーっ、どうやって?」と聞かれたので、「おばちゃんといっしょに包丁で切ったり…」と言うと「いいなあ。わたしもやりたいなぁ」という答えが返ってきました。望の手伝いも望がしたくてしているわけですから、手伝いたいというのは、幼い子どもの純粋な気持ちなのだと思います。それを継続させてやるか止めてしまうかは大人次第かもしれません。宿題として義務になってしまえば、子どもにとって手伝いはどういう意味を持つのかと考えました。家族について考える機会になるのか、第三者に誉められたくてやるのか、あるいは、ただしかたなくやるだけで何も考えはしないのかもしれません。家庭で行われるべき躾を学校がしなければならないこと自体が問題です。私達親が、反省しなければなりません。

ひとこと

1月3日から3晩、望は久しぶりに高い熱を出しました。風邪のようでした。唇の端に「熱のはな」ができましたが、始業式には元気になりました。学校がお休みで体調を崩したのかなあなんて思いました。

1月の授業参観の「せいかつ」の授業では、グループの中でうれしそうに大きな声を出していました。ある日迎えに行くと、日直で、隣の席のMさんと2人で前に出て、反省会をしていました。Mさんが「~は、ありませんか」とクラスの皆に問うと何人かがハイと手を上げました。望がなにか言いながら、手差しをしてあてていました。友達の中の望は、とっても生き生きしています。

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