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のんちゃん 便り

第62号 2001年3月

学校選択に思うこと

1月15日の朝日新聞夕刊の1面に「普通学校 障害児受け入れ緩和」という記事が載っていました。これは、障害を持っている子どもの教育について検討していた文部科学省の「21世紀の特殊教育のあり方に関する調査研究協力者会議」が最終報告をまとめたという記事でした。現在、「障害の種類と程度によって一律に盲聾養護学校に割り振られている」子ども達について、「適切な教育が行える合理的な理由がある場合、児童生徒を小中学校に就学させることができるよう手続きを見なおす」としたものです。

昨年11月6日、この中間報告が出た時に、知合いの新聞記者から意見を求められました。私は「障害の程度で子どもを線引きして、親や本人以外が就学先を決めることはおかしい。就学先は、親や本人が選択するものだと思う」ということを話しました。現在まで、文部科学省は、障害児の普通学校への就学を認めていません。ようやく一歩前進です。でも「適切な教育」が行えないという理由で「就学させること」はできないというわけですから、この報告を素直に喜ぶことはできません。

多くの地域では、専門機関に就学先を指導されています。「障害児の親をバカにしないでよ。相談をすることはあるかもしれないけれど、指導してもらわなくても、自分の子どもの就学先は決められます!」と私は思います。それに、自分の意志とは違う指導をされて、怒ったり嘆いたりしている親は多く、相談でも「適切な指導」でもなく、障壁になっている場合も多いのです。現在、私達の暮らす大阪は、基本的に親の希望により就学先を決めることができます。小中学校だけではなくて、高校に入学する障害児がいる地域なのです。私の入っている障害児の親の会でも「親が就学先を選択できて、大阪はいいなあ」と他府県の方に言われます。「いい」とよく言われるということは、「親が決めたいのに、それがなかなかできないで辛い」と思っている親が多いということです。

そんな大阪でも、障害児の親達から、いろんな声を聴きます。「親の思いで子どもを小学校へ行かせて、かわいそうだ。子どもを中心に考えなさい」と批判されたという親。「子どもの就職のことを考えると養護学校を選んだ方が良い」とある大学の先生に言われたという親。「普通校ではいじめを受けるから、早く養護学校に変わりなさい」とアドバイスされた親。そんなに普通学校に障害児が通うことが問題なのでしょうか。また、親同士の会話でも「あの子は養護学校に行くのはもったいない」という発言を聞くこともあります。

私は思います。「我が子を中心に考えたから、子ども達の中が一番と小学校を選択したのです。大人や行政の都合ではなく子どもを中心に考えるのなら、親や子どもが選んだ学校の設備や環境を整えることの方が必要なのでは?」「障害を持ったら、人生の目的は就職なのですか。そのために7才からの学校生活を費やすのですか。学校生活で心を育てて、成長して自己実現をすることが幸せなのではないのですか?自己実現の中身は、障害のあるなしにかかわらず、人それぞれです。」「いじめに負けるなと子どもに言うつもりはないし、養護学校に変わることを否定もしません。そのいじめをなくすのが、大人のやるべきことではないのですか。養護学校には、いじめはありませんか?」「養護学校に行くのがもったいない子とそうでない子がいるのでしょうか。その線引きは誰がしているのですか。養護学校は『もったいなくない子』が行く所なのですか?」どの学校がいいとか悪いということではなく、就学先を本人と親が選択できることが大切だと思うのです。

ですから、大阪の取り組みは、すばらしいものだと思っています。でも、就学先は選択できても、入学後に多くの問題を抱えているのです。最も大きな問題は、教員数の不足です。それが、「入学はさせてもほったらかし」と、批判の的になっているように思います。たとえ行政が財政難であっても、「人」は一番大切な削減できないものと思います。

望が入学する時、常時、先生が付いてくれるだろうかと心配をしました。重度加配(重度の子ども1人に先生が1人配置される事)がないと聞いていたからです。入学前、望と一緒に入学する車椅子で全介助の子どものお母さんと「私達の子どもが自由に動き回らないからといって、2人に1人の先生の配置になったらどうしよう」と話していました。教員数が足りないからといってよく動き回る子どもを椅子に縛りつけたりすれば、大きな問題になります。動きたくても自分で動くことのできない子どもを放置することは、それと全く同じです。まさか教育委員会がそんなことはさせないだろうとは思いながらも心配でした。入学後、教員数が足りなくて、教務主任の先生や教頭先生、校長先生までもが介助にあたられ、激しいローテーションで先生方は走りまわっておられるという状況下で、なんとか誰かが望について下さっています。

手厚い介護をしてくれる養護学校か、放置される小学校かを選択せよと言うのでしょうか。選択の結果は「自己責任」とされるのでしょうか。選択させるからには、普通校にも養護学校並みの教員配置をして欲しいです。「真の統合教育は最良だけれど、中途半端な統合教育はマイナスだ」という意見がありますが、それが一番いいのなら、なぜそれを目指さないのでしょう。「真の統合教育」の、その途中の過程はないのですか。環境は待っていても整いません。「ともに育つ」ことは、周りの子ども達にとっても大切なことです。大人が子どもを線引きしているような社会では、子ども達に、命を大切にする気持ちなど生まれはしないと、私は思います。

しかし、そういうメリット云々の問題ではないと思います。望が産まれて、私は望の生きていく意味を考えていました。でも、初めて望がずりばいをした時に、そんな意味なんて必要ないと解りました。「生きたいから生きていく。それに理由なんて必要ない」と。それと同じです。「学校に入りたいから入る」。入りたい所に入れるよう、環境や体制が整っているのが豊かな社会だと思うのです。

ひとこと

先日、同じ小学校に通う障害児のお母さんが亡くなられた。本当によくがんばる人だった。やりきれなかった。彼女が遺した子ども達に「がんばれ」なんて言えない。彼女が遺したものには、我が子のために「がんばって」つけた小学校のエレベータもあると思った人は多い。「いいなあ」と言われる環境の下に、そんな親たちの哀しみがある事を 障害児の親ががんばらざるを得ない状況を 「がんばって」と言っている傍観者達に知って欲しい。「あなた達が、今、暮らしている地域を変えていって欲しい」と心から願っている。

 毎朝、はりきって 「いってきまーす!」

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