見出しへ戻る

のんちゃん 便り

第65号 2001年6月

いのちの重さ

近年、少子化による高齢社会の不安が言われています。「少子化。少子化」と言われると、なんだか脅されているように感じるのは、私だけでしょうか。仕事を続けていくためには、子育てに大きな不安を感じる女性もいるし、欲しくてもできない女性もいます。仕事は続けたかったし、そして、なかなか子どもを授からなかった私は、両方の気持ちが解ります。

5月20日の朝日新聞の一面に、長野の根津医師が、代理母による出産を試みていたことを公表したとの記事が出ていました。代理母は、よく米国などがマスコミで取り上げられていますが、日本においては、政府の厚生科学審議会の専門委員会が、生殖補助医療のあり方についての報告書で、代理母を禁止しています。女性を妊娠・出産のための手段として利用するものであり、生まれてくる子の福祉を優先することからも望ましくないというのが、禁止の理由のようです。

子どもができないという悩み、子どもが欲しいという希望。多くの女性達が大変な思いをして不妊治療に通っています。一方、医師達の中には、親のニーズに答えるためと言いながら、研究心が先走る人も多く、充分に議論されず、ケア体制を整えぬまま、研究や治療が進んでいきます。

望は、結婚5年目にようやくできた子どもです。すぐに子どもが欲しかったのですが、なかなかできませんでした。産婦人科に治療のため1年近く通ったこともあります。ハードな仕事をしながらの治療で、土曜日にしか通院できなかったために、基礎体温を測り、薬を飲み、ホルモン注射をするという、最も簡単な不妊治療でしたが、身体はだるいし、胸やお腹は張って痛くなるし、そして、何より精神的に辛かったです。夫の「病院行くのやめたら」のひとことで、やめました。自然にまかせて月日が流れ、今年できなかったら、養子をと思った矢先に望を授かったのです。

そして、望は、妊娠8か月の時に、超音波診断により「異常」のあることが判りました。望が生まれるまでの2ヶ月間、私は、望の「生まれたい」という声を聴いてきました。胎児は、産まれたくて産れてくるのだと感じました。産まれてくる子が幸せかどうかは、障害を持つ持たないで決まることではないと思いました。望が重い障害をもって産まれ、育てている現在でも、その思いは変わりません。

もし、望が早いうちに障害児とわかっていたら、産むことができたかどうか、正直なところ、私は「はい」と言うことができません。なぜなら、それまで私は、障害を持った方々と出会うこともなく生きてきたからです。望を育てている今だから、望が生まれてくれて良かったと思えるのです。望を産んだのが、33歳の時でしたから、次の子どもをどうするかという問題が、すぐに私につきつけられました。次の子を出生前診断を受けないで産むのかどうか迷いました。出生前診断を受けることは、すごく抵抗がありました。でも、その頃、望は、手術入院を繰り返していて、こんなに重い障害を持った子どもを育てながら、次の子が、また重い障害を持って産まれたら、育てていくことはできないと思ったのです。考え迷っているうちに、私は気づきました。「すべて、自分ひとりで背負おうと思うからできないんだ」と。「次の子どもが障害児でも、私は受け入れ愛することができる。誰かが助けてくれれば、育てていくことができる」と。私は望に感謝をしています。望に「ありがとう」と言いながら、次の子は「ありがたくない」とは、これは、望への「ありがとう」がにせものになると思いました。そして、胎児が障害を持っていることを理由に中絶するということは、障害者の命を軽いとみなしていることになると感じました。

望を連れて療育施設に通っている頃、何人かの母達から羊水検査を受けたと聞きました。検査の結果で中絶をしたという人の話は幸いにして聞きませんでしたが、羊水検査のために流産をしたという人はいました。私は、彼女たちを責めることなどできません。彼女たちの気持ちもわかるからです。「誰かに助けてもらえば」と言っても、現実問題、今の社会には支援体制は整っていません。私の決意は、私自身のものであって、人に押しつけることはできないと思っていました。

しかし、日本母性保護産婦人科医会が胎児条項を作ろうとしたり、女性団体が中絶に関する法律案を出してきて、私自身の問題と言っていられなくなりました。法律が「障害胎児を中絶すること」を認めるということは、国が、障害者は生まれなくていいと言っているのと同じだからです。「産まれてくる障害児が減れば、障害者1人当たりの手当てが厚くなる?」そんな訳はないでしょう。福祉や医療の全体の予算が減るだけのことです。「そうなれば国民の税金が、助かる?」人の命より、お金が優先ですか。不妊治療が盛んになり、今までブラックボックスだった受精卵、つまり、胎児となる物が研究材料として手に入るようになり、医薬品の開発や遺伝子解析治療研究に使われています。特許を取れば、大儲けになるわけです。また、トリプルマーカーテストも、後ろに企業の姿があります。経済優先の世の中にあって、人の命がどんどん軽くなっていくと感じています。

人の身体が商品化していくようです。人のいのちの重さが、計れるということになっていくのでしょうか。望は、高齢者のために働けないどころか、多額の税金を使う子どもです。なんの高齢社会の助けにもなりません。お金に換算すれば、望は、価値のない子どもになってしまいます。でも、障害児が産まれてくるのは、自然なことです。それを「防止」する法や技術が出てくることは危険なことだと考えます。最先端生命操作技術のもとには「自然の法則」などありはしないのでしょうか。

「人の命は、計ることはできないほど尊くて、神秘に満ちたものだから、価値のない人などいやしない。ひとりひとりが大切な命」と、望が私に教えてくれました。その「いのちの重さ」を伝えたいと思います。私は40歳を過ぎ、にぎやかに暮らしたいと思っていたのに、残念ながら望はひとりっこになりそうです。にぎやかに暮らすのは、なにも家族とばかりでなくてもいいのだと、望との暮らしの中で学んでいます。障害をもって産まれてきた子どもを「よく生まれてきたね」と受け入れる社会、いろんな人がともに暮らす社会。本当の意味の豊かな社会になって欲しいと願っています。

ひとこと

今月は、少し難しい問題を取り上げてみました。望に大きな出来事がなかったということです。望は、なんとか苦手な春をのりきろうとしています。学校を1日休みました。

GWに電車に乗って奈良公園へ「いくら大丈夫と言われても、やっぱり鹿はこわいよー!」

64号 見出しへ戻る 66号