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のんちゃん 便り

第74号 2002年3月

ままごと

望が保育所に入った3歳半の頃から、我が家に近所のお友達が遊びにきてくれるようになりました。でも、遊びにきてくれたのは、なぜか男の子ばかり。同じ保育所に通う女の子が近所にいなかったこともありますし、望のおもちゃがミニカーやプラレールといった男の子向けのものだったために、おもちゃ目当てだったのかもしれません。目的がなんであろうとも、友達が家に来てくれるというのは、とても嬉しいものです。

小学校に入ると、女の子が遊びに来てくれるようになりました。おもちゃで遊んだり、タンブリン、木琴、鍵盤ハーモニカなどの楽器で遊んだりしてくれました。下校時に「今日、のんちゃんのうちに遊びに行っていい?」と声をかけてくれます。2年生くらいになると、「何時くらいに行ったらいい?」まで聞いてくれます。こちらの都合が悪くて断る時は、「じゃあ、いつだったらいい?」と予約をしてくれます。今年度望は、よく風邪をひいて、なかなか友達に遊びに来てもらうことができませんでした。望は、今でも昼寝をしますから、友達が来てくれても少しの時間しか遊べないのですが、ひとりっこなので大喜びです。でも、学校で全力を出しきってくるために、せっかく友達が遊びに来てくれたのにまだ昼寝をしていて、お友達が起こしても起きず、帰ってもらったこともありました。

先日、同じクラスの女の子と、昨年同じクラスだった女の子と、その友達の女の子が来てくれました。3人は、昼寝から起きた望と一緒におやつを食べました。おやつを食べている時に、「みんな、いつも何して遊んでるの?」と私は聞いてみました。「うーん」と返事が返ってこなかったので、「2年生だったら、もうままごとなんてしてないか」と聞くと、「ううん、時々してる」とのこと。3人は「ままごとしよう」と言いだして、ままごと遊びをすることになりました。

望もままごと遊びは久しぶりです。療育センターに通っていた頃、自由遊びで時々していました。おもしろそうにしているので、ままごとのおもちゃを買って、ボランティアさんが遊びに来てくださった時にしたりしていたのですが、保育所に入ってからは、ほとんど箱に入ったままでした。でも、保育所では、よくままごと遊びをしていたようで、いろんな布を身にまとわされて、ネックレスなどもしてもらって、かごを持って、友だちとお買い物に行ったりしていたようでした。望は、料理を作ったり、食べたりするまねっこは、理解していて遊ぶのですが、おかあさん役とか子ども役といった「役」については、解っていないようです。

その日、お友達が「のんちゃんは赤ちゃんの役にしよう」と言いました。そこで私が「のんちゃんに聞いてみたら?もしかしたら、おかあさんの役をしたいかもしれないよ」と口をはさみました。でも、あまり大人が口を出さないほうがいいと思い、後は台所で夕飯の支度をしながら、子ども達の遊ぶようすを見ていました。「のんちゃん、なんの役する?」と聞いてくれていましたが、解らなかったようで、結局「赤ちゃん役」になりました。「おかあさんの役をしたいひとー、手を挙げて」と1人の子が聞いたのですが、誰も手を挙げませんでした。次に「お姉さんの役がいいひとー」。すると、皆が「はーい」。ちょっと意外でした。

Aちゃんは、おかあさん役。お姉さん役になったBちゃんは望と遊び、Cちゃんは、出かけてくると言って、台所の私のところに来て興味深げに夕飯の支度を見ていました。女の子ばかりだからか、お父さん役はいません。「早くご飯食べてよ」Aちゃんが言います。Aちゃんは、「ご飯作るのしんどい」と言い、他の子が「おかあさん、フライパンも洗わなあかんで」などと言っていました。やがてAちゃんは「誰か替わって!」と叫びました。そして、途中から望がBちゃんと一緒におかあさん役をしていました。後で聞くと、赤ちゃんののんちゃんと遊ぶお姉さん役を皆がしたかったのだそうで、おかあさん役は「だるい、めんどくさい」からしたくないそうです。

昔は、女の子たちが一番したい役が「おかあさん」でした。「さっちゃんのまほうのて」(偕成社)という絵本があります。主人公のさっちゃんは、右手の指がない女の子です。幼稚園のままごと遊びで、いつも小さな妹役か赤ちゃん役のさっちゃんが、「あたしだって おかあさん やりたいもん」「きょうは あたしよ」と言うのですが、友だちに「さっちゃんは おかあさんには なれないよ!だって、てのないおかあさんなんてへんだもん」と言われてしまいます。

1年生の図書の時間に担任の先生がその絵本を読んでくださった時、クラスの子が「さっちゃんはおかあさんになれると思う。だって、のんちゃんだってなれるから」なんて言ってくれたそうで、感激したことがあります。でも、「手がなかろうとなんだろうとおかあさんしたらいいよ。でも、おかあさんはしんどいから、わたしはしたくないもの」という時代になったのでしょうか。きっと、子ども達は、自分の母親を嫌いなのではないと思います。でも、なりたいものでもないようです。「おかあさん」に限らず、大人になりたくないという子ども達もいるようです。子ども達にとって、「大人」達が魅力的ではなくなっているのでしょうか。ちょっと寂しいと思います。なんだか、子ども達の将来の「夢」もなくなりそうで心配です。

現在、子育て支援のサービスやボランティア活動が始まってきています。私も子育て支援ボランティアに関わっています。今後、もっと子育て支援・子育ち支援が必要になってくると思います。でもそれ以上に、家族の中で「おかあさんっていいなあ」と思えるような母親でいられるためにはどうしたらいいのか、きたない大人や、子どもを批評し敵視する大人ではなく、子どもの味方の大人になるためにはどうしたらいいのかを社会全体で考えることが必要になっているのかもしれません。

ひとこと

先日届いたEメールに「2次障害のために日に日に身体の自由が利かなくなる自分をもっともっと認めたくなる」という文があり、私は同情でも哀れみでもなく、いとおしい気持ちで受け取りました。「障害をもつ子を産むということ」(中央法規出版)のなかで、私は、望の身体を美しいと感じると書いています。また、劇団態変を通じて、たくさんの「からだ」をみてきましたが、あるがままの身体、命、そして、その存在をいとおしいと感じます。それは、私が望によって育てられた「ありのままを受け容れるという母の目」で見ていたからかもしれないと、そのEメールを読みながら、ふと思いました。

「さようなら」は、いつも担任の先生と一緒

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