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のんちゃん 便り

第85号 2003年3月号

闘い

ちょうど1年くらい前、障害児施設職員の研修で、「いままで闘ってこられて、これからも闘っていかなければならないと思いますが、どんなふうにしていこうと考えていらっしゃいますか」と質問を受けた。返答に詰まった。もう1人のパネリストのお母さんが、「闘って」こられた方だったので、その質問に答えてくださり、その場は終わった。私は、闘うことが苦手だ。他人と競うことがいやだった。でも、ずっとそうだったわけではない。子どもの頃、いろんなことで人と競ったり比較したりして、優越感に浸っているような子どもだった。よく、男の子ともけんかした。一方で、そんな自分を好きになれない私がいた。闘うことにより、自分の性格の嫌な部分が出てくるように感じて自己嫌悪に陥った。

家族とは日課のようにけんかしていながら、外では他人と闘うことなく、できれば穏便にことをすませたいと思って生きてきた。私は、いろんなところで、疑問や怒りを文章に書いてきた。でもそれは、顔の見えない大きなものへ対して、一方的に声を上げただけで、闘ってきたという自覚はない。望の場合、時代の変化のおかげと環境や周りの人達に恵まれたために、ここまで闘わずしてきた。何とか話し合いで解決していきたい。これからもできれば闘いたくないと内心思っていた。でも、闘いたくないけれど、闘わなければならなくなる日が来るだろうと、その時、思った。

その1か月ほど後、望の養護学級の先生達とかなり激しいやりとりをした。「言わなければわからない。言いたいことを言って来い」と夫に後押しをされてのことだった。いろんなことでストレスを溜め、精神的にまいっていた時でもあった。でも、本音で話のできる先生だったので、そのやりとりは、結果的に信頼を深めるものとなった。いつもそうであればよいが、相手によっては、話し合いでは解決しないこともあるだろう。

かつての激しい障害者運動について、人権を踏みにじられてきた彼らの怒りの大きさや、彼らのおかげで今の社会があることは、頭ではわかっていても、感性では受けとめられずにいた。その過激さだけに目を奪われてしまいがちだが、障害者運動、特に青い芝などの闘いを知るにつれて、そこにある奥深い思想に驚き、感動さえした。だからといって、同じような闘い方など私にはできない。個人や社会を相手に闘いたくはない。けれど今、私の怒りが大きくなっている。私の闘う相手は何だろう。国や行政や集団になるのだろうか。

行政の「予算がない」という理由による人件費の削減への怒りが大きい。在宅支援・利用者主体の制度にと言いながら、支援費制度の抱えるさまざまな問題点に、国に対しての怒り。教員数、特に重度障害児への加配教員の削減に、府や市の教育委員会に対しての怒り。年度変わりを前に、大きな不安を持つ。予算に限りがあるのは当然だ。でも、必要なところを削減されては納得いかない。これからの社会を担っていく子ども達だ。それとも、障害児者は、社会を担う能力がないから切り詰めていいと、行政は考えているのだろうか。

大阪市の教育委員会は、「教育改革プログラム」を昨年の始めに策定した。今年度から10年計画で施行されている。その中に、ノーマライゼーションの理念のもと、地域で共に育ち、共に学び、共に生きることを基本とした教育を推進することを示した「大阪市障害者支援プラン」をあげて、「すべての子どもが共に学び、共に育つ教育の実現をめざして、障害のある子ども一人一人の状況に応じた教育の推進に努める」と示されている。友人は、大阪は統合教育が進んでいていいなあと言う。確かに理念は素晴らしい。こんなプランのもとで、子どもが成長していく地域であることをうれしく思う。でも、実態はどうだろう。府財政・市財政の厳しいことを理由に、障害児に対する教員数の配置は、減る一方である。一人一人の状況に応じた教育どころか、安全な学校生活を送ることも厳しい状況が生まれている。

重度障害をもつ子どもも受け入れるのなら、医療的ケアの必要な子どものいる学校への看護師の派遣も行うべきところなのに、それどころか、付き添う教員数が大幅に削減されていく。これは、どういうことだろう。身動きできない子どもが放ったらかしにされたり、多動の子どもが拘束されたりする可能性もでてくる。これは、人権侵害に他ならない。人を育てるための「人」の費用を節約の対象にしないで欲しい。財政難なら、子どもの命や人権をいいかげんに扱っていいということはないだろう。それとも、国の方針に従って、軽度の障害児は地域の学校に行き、重度の障害児は養護教育諸学校へ行くようにと、「国の動向等をふまえて」方向転換するつもりだろうか。思わず、そんなふうに疑いたくもなる教員数の削減である。

他府県の住民達からうらやましがられるような教育理念を掲げたのだから、それを実践してこそ、胸を張れるのだ。障害児のためだけでなく、健常児のメリットのためでもなく、さまざまな子ども一人一人の人権を大切にし、ともに育つ教育こそが、大阪らしい教育だと思う。すべての子ども達が、安心して楽しく学校生活を送れるような環境を作って欲しい。本来なら、これは要望となるようなものではなく、なされて当然のことである。財政が苦しいのは、重々承知している。でも、それを言い訳に弱いものを切り捨てないで欲しい。なんとか対応策を考え、工夫していくことはできるだろう。

行政の方々に学校現場を見に来て欲しいと思う。障害をもつ子ども達が、友達の中でどんなに楽しそうに学校生活を送っていることか。その子ども達にとって学校がどんなに大切なところなのか。障害児担当の教員達は、足りない人数を補うためにがんばり、人手不足を補いきれずジレンマに陥っている。障害をもつ子どもの人権が侵されるような環境では、子ども達の心は育たない。未来に向けてたくましく生きる「なにわっ子」が育つはずはないのだ。あと1か月ほどで年度が変わる。新年度、学校の体制はどうなっているだろう。できれば闘いたくはない。けれど、闘わなければ解決しないこともあると、覚悟を決めなければと、思い始めているこの頃である。

ひとこと

2月にもスキーに行きました。雨や吹雪と天候は悪かったですが、もう1回もう1回と望は欲求して、また今回も滑りまくりました。3年生もあと1か月。楽しく充実した学校生活であることを願っています。


だるまさんがころんだ

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