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のんちゃん 便り

第87号 2003年5月号


子どもが真ん中

望の4年生がスタートしました。望の学校は、毎年クラス換えがあります。始業式の日に各教室の入口にそのクラスの名簿が張り出されます。今年度は、校長先生も代わり、ドキドキしながら登校しました。廊下で、友達が「のんちゃんは、1組や」と教えてくれました。4年1組の教室を覗くと、望の椅子と机がありました。他の子ども達は自由に座りますが、望の机と椅子は特注なので、望の席だけは決まっています。その望の席の隣と後ろに、3年生の時の仲良しさんが座って望を待っていてくれました。

2、3年生のクラス換えの時は、望と関わりの多かった友達とは、違うクラスになってきたので予想外でしたが、少し安心しました。3年生では、友達と本当にいい関わりを持てたので、今年度もこの子ども達を中心にいろんな子どもが自然にかかわってくれることと思います。また、お茶の飲み方、コミュニケーションのとり方、遊び方、いろんな道具の使い方など、私が先生にお伝えしなくても、子ども達が伝えてくれます。私は、迎えに行った時に、新しい担任と養護学級の先生に、抱き方と椅子の座らせ方をお話しただけでした。あとは、導尿に通いつつ、導尿中に養護学級の先生に、体温調整の難しさや着替えについてお話をしました。

望は、さっそく休憩時間に友だちを遊びに誘ったり、新しい養護学級担当の先生にわがままを言って反応をうかがったりしているようでした。環境が変わっても、周りを観察しつつ楽しみ、相手の反応を見ながら自分の欲求を出していく、そのたくましさに、望の小学校3年間の、いえ保育所からの6年間の積み重ねを感じます。

86号に書いたように、望は「人の中に存在する力」をつけてきたと思います。それは、望1人でがんばった結果ではありません。友達の中で、お互いに力をつけてきました。その環境を作られた教師の力や学校全体での取り組みをしてくださった校長の力もあります。私は、意味のわからない授業を受け続けることが、望にとって意味があるのか、望は苦痛ではないのか、望が授業中に周りの子どもの勉強の邪魔をしはしないかなど、本当に子どもにとって最善の選択なのかと自問自答しながら、迷い迷いやってきました。3年生になってようやく迷いがなくなりました。望は、どんな時も友達と一緒に居続けたから、人の中に存在する力をつけました。クラスメイトがいつも望という存在を感じながら過ごしてきたから、クラスの仲間になりました。クラスの中にいても、工夫次第で望なりの勉強もできるようになりました。

小学校3年間で基礎作りができたから、残りの3年間はもっと楽しく充実させていけるかなと思っていたのですが、85号に書いたように、教員や介助者の人数が足りず、不安いっぱいのスタートになりました。昨年度は、養護学級在籍児が15名(うち全介助の必要な児童4名)に対し、養護学級担当の教師4名と介助バイト1名という体制でした。もちろんその体制で対応できるわけではなく、担任を持たない教員も入り、すごいローテーションを組んで、なんとかやってきたのです。ところが、今年度は、1年生が常時介助の必要な子どもにもかかわらず、教員数は同数で、その上、介助バイトが週に15時間だけになったのです。それでも、大阪府が障害児担当の教員を大幅に削減する中、昨年と同数の教員を確保することは大変だったと思います。新年度が始まり、市の状況も厳しくて介助バイトの確保も難しかったようです。

今年度は、14名の養護学級在籍児(うち全介助の必要な児童5名)に対し、養護学級担当の教員4名と、週15時間の介助バイトで、スタートすることになりました。養護学級の教員だけでなく、学校全体で取り組んでいただかなければならないのはもちろんですが、それでもやっていけるのか不安です。養護学級在籍児が、ほったらかしになる可能性もでてきます。

我が校は、この3年間、障害を持っていても同学年の友達と一緒の学級が基本という取り組みをしてきました。ずっと友達と居続けることが子どもにとって苦痛な場合や本人が養護学級で勉強する時間も欲しいと希望した場合に、先生と親が相談をして、養護学級へ通級するようにしてきました。大阪市の示す「共に学び、共に育つ教育」「1人1人の状況に応じた教育」を目指して、先生方はがんばってこられました。でも今後、教員数が足りないために養護学級教室にまとめられる可能性もあります。そうしたとしても「状況に応じた教育」などできる体制ではなく、それは「教育」でなく「管理」に他なりません。いえ、それ以前に、今までの取り組みが良くないからということではなく、大人の都合で体制を変えることは問題があります。

大人の都合や責任問題によって、子どもへの対応を決めることに疑問を感じることは、今までにもありました。医療的ケアもそうです。予算とか責任とか、行政や多くの大人たちは、そんな言い訳をしたり、問題をすり替えたりしてきました。子どもを真ん中において、どうしたらいいのだろうかと考えるのではなく、自分達の都合を優先して対応してきたのではないでしょうか。いろんな場面において、決定する力のない子どもの代わりに、大人が決定をくだす時、そこに大人の利害が入り込んではいないでしょうか。私自身、望に代わって何かを決める時、それは「あなたのために」ではなく「自分のために」しているのではないかと自分に問いかけています。

この厳しい状況の中、費用的にどうしようもなければ、ボランティアの利用も考えられます。でも、ボランティアは、行政の穴埋めではありません。無償性だけのものでなく、行政にはできない1人1人へのきめ細かな対応や創造的な活動を行うものだと思います。必要最低限の体制を作るという行政の責任が果たされた上で、学校の取り組みがあります。そして、学校は、現状を乗り切るために、親や地域と協力してやって行く必要があります。取り組みや工夫の仕方によっては、地域の中の学校、地域との連携という、今の学校に求められている姿が見えてくるのではないかと思います。子どもを真ん中において考えることの大切さを改めて感じています。

ひとこと

GWに家族で奈良の長谷寺に牡丹を見に行きました。電動車椅子で、バスと電車を乗り継いで行きました。望はいろんなものに興味津々でした。


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