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のんちゃん 便り

第95号 2004年2月号

憂鬱な季節

望が小学校に入学してから毎年、この時期はとても憂鬱になります。それは、次年度の障害児担当教員が何人配置されるのか、減らされるのではないかと不安になるからです。入学の時には、「人手が足りない」ということを聞いても、自分で身動きできない子どもを放置したりするような教育はしないだろうと心配はしていませんでした。ところが、入学してみると、障害児担当教員の人数は確かに足りず、望に先生1人ついていただくと、他の子どもが放置されるという状況で、他の保護者に申し訳ないと思いながら過ごすような日々でした。昨今の学校をめぐる様々な事件のために、現在は職員室に誰もいないという状況は作れなくなりましたが、当時は、校長先生も教頭先生も教務主任の先生も、障害児の誰かの介助に入っていて、職員室がもぬけの空のこともしばしばでした。

望の通う小学校は、1学年が4クラスある大きな学校です。障害児も多く、毎年15名近い児童が養護学級に在籍しています。そして、重度の障害児が多いことが特徴です。望を入れて3名の重度身体障害をもつ児童がいます。3人とも車椅子で、自分で物を持つこともできない状態の全介助が必要な子どもです。知的障害をもつ児童も、多動で常時目を離すことのできない子どもやパニックを起こす子どもがいます。現在、養護学級担当の教員は、わずか4名。週3日午前中だけの介助バイトが1名という体制です。毎年、養護学級担当の先生方は、学期始めにはローテーションに頭を悩ませ、休憩する間もなく子どもの介助にあたる毎日です。先生方の懸命な努力の中、望はなんとか事故もなく学校生活を送っています。教育内容云々ではなく、事故もなくとは、なんと情けないことでしょう。個々にあった充分な教育など望むことはできず、大事無く日々が送れればそれでいいというのが現実です。

このような体制ですから、重度の障害をもつ望にも、常時人が付くことができず、毎日1時間は、介助者がつかず、クラス担任だけで授業が行われています。クラスの友達の中で介助者がいない状況は、要求を誰にでも伝えて介助してもらうという学びの場になるかもしれません。我慢しなければならない時もあると知ることも1つの勉強かもしれません。でも、時と場合によります。自分の身体を動かしたり、要求を満たしたりすることを介助者の手を使って行う子どもにとって、国語や算数の授業中に放置されるのは、椅子に拘束されている状態が起こっていることになります。45分の授業中じっとして座っていることを想像してください。皆さんは、それくらい簡単と思われますか。身体的に障害をもたない私たちは、無意識のうちに体を動かして体重移動をしていますが、障害児は自分でお尻を動かして座りなおしをすることもできないのです。

なぜこんな事態が起こるのでしょう。どうして障害児の親が、教員不足のために起こる学校生活の問題について学校長と話し合いを重ねなければならないのだろうと哀しくなります。大阪市は、この20年余りの間に、多くの障害児が地域の学校に通い、重度の障害児のために介助の先生も確保され、統合教育先進地域となってきました。多くの重度の障害をもつ子ども達も、地域の学校に通っています。おかげで望も大勢の友達と一緒に学校生活を送り、お互いに育ちあってきました。

しかし、近年、府の財政難によって、重度障害児への加配の先生をなくす方針で教員の配置が行われるようになってきました。少子化により、児童数は減ってきました。その一方で、学習障害や自閉症の子どもは増えています。身体障害児も減ったわけではありません。養護学級在籍児は増えているのです。重度障害児への加配がなくなるということは、暗に全介助の必要な子どもは、本人の意志にかかわらず養護学校に行きなさいと言われているかのようです。弱いものから切り捨てられる教育が行われようとしています。

大阪市は、平成14年に、すべての子どもが共に学び、共に育つ教育の実現をめざすために「学校では、子ども一人一人の個性や多様性を尊重し、人権文化に満ちた社会を創造していく力を培う」こと、障害の有無などによる差別や偏見をなくし、すべての子どもの自己実現にむけ、「21世紀を『人権の世紀』とすることをめざして、あらゆる教育活動を通して人権教育を推進する」とした教育改革プログラムも策定されました。「子どもが未来に向かって希望をいだき、自らの夢にチャレンジしていくことのできる教育の実現と学校づくり」をめざすことも明記されています。このすばらしい理念はどこにいったのでしょう。本当に「人権教育」が推進できるのでしょうか。「子どもの自己実現」をめざすことができるのでしょうか。障害をもっている子ども達も夢を持っています。それなのに、その夢を聴こうともしてくれない教育行政の姿勢を感じています。

先日、ある保育所を訪れた時、所長さんが「先ほどまで避難訓練をしていたのですが、所庭が狭くて、建物が倒れてきたら下敷きになってしまいそうで、いざという時どうすれば子ども達を守ることができるのか本当に悩んでいます」とおっしゃいました。それが、いのちを大切にする、子どもを大切にする姿勢なのだと思います。それは、「福祉」も「教育」も同じだと思います。小学校は、本当に子ども達を守り育てることができるのでしょうか。いのちの大切さを子どもに教えながら、子どもの声を聴くことの大切さを保護者に言いながら、学校自体、それができない環境におかれていることを感じています。

私は、この文章を書きながら、だんだん空しくなっています。国立大学法人化も、先に行財政改革ありきのものでした。「人」の問題が、財政難の一言で片付けられるこの社会に、教育が未来に向かういのちの輝きを奪いはしないかと気が重くなります。ともに学びともに育つ教育を目指して、真剣に取り組んでいただきたいと思います。本当の「人権教育」が行われることを願ってやみません。

ひとこと

憂鬱な日々の私ですが、いきいきとしている望を見ていると、少し心が和みます。スキーと電動車椅子サッカーが、この冬の楽しみです。サッカーは、車椅子にタイヤを取り付けなければなりませんが、学校で友だちにぶつかっては危ないと取り付けている前部のクッションがタイヤの代わりになり、早速練習に加えていただきました。温かく迎えていただき、張り切っている望です。ルールの理解が課題ですが、技術の方は、チームの方々が「うかうかしてたら抜かれるで」と言われるほどの腕前です。スキーは、次号をお楽しみに。


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